2009年5月10日日曜日

宗教の是非

 ボクは宗教は必要か、という問いに明確な解答を示す事ができない。
 不必要と思う理由は、当然のことだが宗教対立により世界が歪曲しているからだ。対立するぐらいなら宗教なんかいっそのこと無くなってしまえ。ただ宗教がなくても対立のない世の中は実現できまい。結局宗教は動機のひとつに過ぎないからだ。とりあえずは人間の心の問題ということだが、そんな曖昧な表現で終わらせることはできない。社会制度なり強烈なリーダーが必要だ。しかしながら、対立の原因のひとつが減ることには変わりないため、宗教は不必要であると言える。
 ただボクは基本的には必要という立場に立っている。日本人にとって宗教というと日常の妨げという感覚がある。日々の礼拝や様々な教義は不可思議なものである。しかしボクは宗教によって人は救われていると思う。もちろん神によってというわけではない。辿り着けない何か大きい存在を信じることで、つまり各々の精神によって救われているのだ。
 ボクたちは日々の細事に追われ苦悩する。でかい夢があっても目の前のことをこなすだけで一生懸命になってしまう。そういった日常はなかなか辛いものである。それが毎日続けば精神状態はボロボロだ。しかし、そんな細事を本当に小さいことと捉え、自分には叶えるべきこと、守るべきものがあるならばそれほど問題にはならないはずだ。それは夢であり家族であり宗教でもある。かなり大雑把な言い方をするが、宗教はそれが定める正しい行為、強い信心があれば天国に行けるというのが基本的な考え方である。天国に進めるならば目の前の問題など大した事ではないという、ある種の慰めの役割を果たしている。何かでかいものを信じないとやってられない、という境地でもある。
 ボクにとっての宗教は自分なりの哲学である。中学2年のとき、生きるとは何なのか、愛とは何なのか、という中学時代にありがちな哲学の芽生えをボクも経験した。夜な夜な布団の中で考えては自分なりの答を探し続け、友達同士で語り合ったものである。半分以上は忘れてしまったものの、その時期に考えたことは人格形成に大きな影響を与え、今の自分の考えのベースにもなっている。その自分なりの哲学を守ったり実現を目指すことで、ボクは日々を健全に過ごしている。ただ当時は文章化することをしなかった。非常に悔やまれる。言語化、文章化することで考えが整理される。そして何より大事な記録として保存もできる。これはボクがブログを再開したひとつの動機である。
 考えを書き溜めて哲学を作っていこう、自分。自分から自分への最高の投資だ。

2009年5月9日土曜日

苦笑

 この記事のタイトルは「にがわらい」ではない。苦しい時に笑う、という意味だ。ボクは苦しみながら笑って生きる。
 ボクはまだ24年しか生きていないが、辛いことだらけである。しかし、それがいいのだ。辛いことを経験すれば成長できる。そして辛いことを乗り越えた時に自分のことを好きになれることが、自分にとって大きなプラスなのだ。自分を好きになれても、もちろんもう一人の自分は冷めている。でも、辛いことを乗り越え自分を好きになると、ボクの周りの世界はキラキラ輝きだす。やはりいい人生か悪い人生かを決めるのは自分次第である。ボクはそんなキラキラ世界にしたくて、二者択一の道では敢えて険しいほうを選ぶこともある。しかし、それには相当な覚悟がいる。今までで最も腹をくくったのは、大学二年の時の壊滅的な人間関係を解消するべく立ち上がった時である。ボクは20年以上続けてきた保身の気持ちを捨て、生まれて初めて攻めの姿勢で本音で話すことを決意した。それが一番皆のためになると思ったし、何より自分自身の成長のためであった。ただ、個人的に発狂しそうなほどの覚悟であった。これほど自分を追い詰めたのは先にも後にもこの時だけである。
 実際、辛いことは大抵向こうからやってくる。その刹那ボクは嫌になる。溜息をつく。逃げたくなる。でも、心の中ではガッツポーズをとっている自分も存在する。やったこれでまた成長できる、充実した時間を過ごせる、と。会社ではいつもボクはビクビクしながら業務をこなす。できれば平穏に終業してほしいと思って仕事している。でも、平穏に終わったら帰るときがっかりする。充実感もないし、成長した実感もまるで無い。世界は鈍く輝いている。語弊があるが心の中ではハプニングなり予想外の出来事が起こることを期待しているのだ。単純に頑張る機会に飢えている。
 しかし、それではいけない。自分から日々辛い道を選ばなければいけない。ボクは上記体験では険しい道を進む覚悟ができた。ただ過去を振り返ると、ここぞという場面でボクは逃げてきた。そして周りに甘えてばかりで、マイナスの影響を与え続けた。マイナス1人前である。まずは受験である。ボクは二浪した。東京外大入学に妥協しなかったことはよかった。でも、特に苦労していない。ボクに二浪は辛い道ではなかった。むしろ興味本位で浪人生になりたかったというのもある。それに加え、親と生活しているがゆえ、お金には困らない、御飯、風呂、朝起きるのも親に頼ってばかりの楽な生活であった。外大を受け続けたのだって、親が期待してくれてただの肩書きがほしかっただの、なんとも受け狙いな動機である。また肝心な勉強も自分を追い込むことをせず、目の前の欲に負け続けた。これではとても辛い道とはいえない。部活においても同様のことが言える。日々の与えられた練習を楽にこなすことばかり意識して、ただこなすだけの練習であった。監督と周りの人間への受け狙いで練習していた。その割に、自分はよくやっていると感じていた。
 辛い道を望む自分と楽な道を望む自分の争いである。親はもう当てにしてはいけない。監督ももういない。辛い道を選ぶことが日常になれば、ボクはやっと0人前になれる。

2009年5月5日火曜日

劇場型人生

 至極個人的な話をする。しかしきっと同じ事を感じている人、潜在的に認識している人は必ずいるはずだ。
 人は、いやここではボクは、と言っておく。ボクは人生という劇場の演者だ。セリフを与えられ演技している自分と役そのものの自分が同時に存在している。あまり好きな表現ではないが、偽りの自分と本当の自分とも言える。この二つの自分が同時に存在するから苦労する。ひとりは人当たりがよく元気で理性的な自分。もう一人は陰険でエゴイストな冷めた自分。前者が役で後者が素である。ただ自分の本性は全て素の部分ですとは断言できない。与えられた役も自分なのだ。自分の意思で動いていることに変わりない。でも取り繕っているせいか、演技中疲れてしまうこともある。でも役の自分は純粋に楽しい。いやな自分との争いに負けて、急に冷めだしても、そんな自分が好きでもある。別に冷めた自分を変えようとは思わない。変えたと思ってもきっとそれは無理をしているだけだから。
 もう一人の自分の存在に気付いたのはいつのことだろう。もちろん自分の生を認識できたときから存在し続けているのだろう。ただ、もう一人の自分をはっきり意識し、その存在に思い悩んだのは大学2年の秋であるのは明確に覚えている。壊滅的な人間関係に悩みんでいた。あの人のためにはどうしたらいいんだろうと考え続けて、結局自分はどうしたいんだろうという疑問にぶち当たった。ここをはっきりしないと人様のこと世話ごとなんてできるわけ無い。人を大事にするのならまず自分を大事にしろっていうのはこういうことなのかもしれない。そんなことばかり考えていたから、もう一人の自分を意識せざるを得なかった。その時は徹底的に深いところまで自分を見つめなおした。どうしてあの時こう感じたのか。どうしてあの時ああいった行動に走ったのか。本当は自分は何を大事に生きているのか。見えてきた自分は汚いものだった。だが不思議と辛くなかった。自分の脳内が整理され、多元的に自分の思考をグループ分けできたことに満足感さえ感じた。自分はしょーも無い人間である。だけど、そんな自分を恨んでもどうしようもない。そんな自分も好きになろう。自惚れかも知れないがニーチェの言う自己愛に近い境地かもしれない。
 そんな自分を否定する気はないが、自分が嫌になることはある。例えば恋しているときに顕著である。誰かを好きになって、胸高まっても、もう一人のが喚起する。それは恋じゃない、恋している自分に恋しているんだ、と。悔しいが確かにそうである。今までの恋といったら、彼女がいる状態にあこがれていただけであったり、恋愛状態が楽しいだけであったりしただけだ。その時だけは皆がボクの話をちゃんと聞いてくれる。その本心は実際恋愛中でも分かっている。でも表面の自分が臭い物に蓋をするのだ。オレはあの娘が好きなんだと言い聞かすのだ。恋だ、いや自己愛だ。こんなやり取りを自分の中で繰り返すうちに、自分が嫌になってしまう。そんな状態だから、恋に攻めの姿勢になれなくて、結局保身の気持ちで恋愛してしまう。本当に大事な人は相手だといえないのだから。むしろ大事なのは自分なのだから、傷つかないように動いてしまうのだ。本当に恋すると劇場のステージから降りて新たな境地に立つのではないか。そんな淡い期待がある。しかし、そんな境地分からないし、存在するのかも疑わしい。実際好きになればなるほど、葛藤は激しくなるだろう。それだけ相手のことを思っているわけだから。
 自分が嫌になってどうするかというと、2つの自分の葛藤を見てまた新たな3つ目自分が冷静に見つめるのだ。さらに悩んでまた4つ目の自分が冷静に見つめる。そしてそれはスパイラルしていく。一つ一つは違うことを言う。

くだらない。お前はそうやって悩んでいる自分が好きなだけだ。

そうやって冷静に見つめてる自分を見つめてる自分にお前は自惚れているのだ。

そのことをブログに書いて自分を格好良く見せたいだけだ。


そうやって自分のやることなすこと全てに客観視する自分が現れる。本当の自分など無い。全て自分だ。全ての自分を愛していこう。そして、ひとりひとり大事にしよう。

批判する権利

 ボクは人の悪口を言うのが好きである。別にその人のことを嫌いではないのだが人の陰口を肴に飲む酒はうまい。そんな自分が言う権利はないかもしれないが、ボクが今一番気を付けているのは、人を簡単に批判しないということだ。近年人は簡単に人を傷つけ過ぎである。自分の都合の悪いこと、面白くないことがあると、必ず批判する。本人にその気がなくても必ず批判は誰かを傷つける。だからボクは簡単に人を批判しない。
 ボクがこういう風に考えるようになったのは数年前ABC放送の「熱闘甲子園」を見たときである。その回の放送ではある留学生選手を取り上げていた。留学生選手という言葉を聞いて日本人はどう思うだろうか。恐らくいい気はしないだろう。寧ろ「面白くない」「卑怯」「そこまでして勝ちたいのか」と思うだろう。留学生頼りの大学駅伝のチームや外国人でクリーンアップを任せているプロ野球チームを見て応援する気は多少失せるだろう。実はボクもそうだった。留学生入れて戦うなんて卑怯だと思っていた。負けろと思っていた。しかし、「熱闘甲子園」を見てボクの考えは変わった。その回では、まだ全然日本語を話せなかったころ苦労していた姿や、日本人と同じく仲間と同じ目標に向かって練習している姿や、親に会えなくて寂しがる姿、そしてそのご両親も故郷で寂しがる姿が放送されていた。考えてみれば安易に想像できたはずである。十代の若者が親元を離れ言葉の分からない国に飛び込むのだ。人一倍辛い思いをして、努力したに違いない。しかも、外国人というだけで白い目で見られるなんて。ボクはなんという愚行を繰り返していたのだろう。多くの人の批判は彼のこころを痛め付けただろう。その時以来ボクは簡単に批判しないよう気をつけている。
 自分が面白くないことがあるとすぐ批判するのは悪いクセである。亀田大毅への切腹コールなんていじめだ。あんな多数で言われたらと思うと恐くて仕方ない。ETC割引で渋滞が起こっているらしいが、とあるニュースで、割引にしたせいで渋滞が引き起こるのは何とかしてほしい、と不満を垂らしているドライバーがインタビューで言っていた。では一体どうしたらよいのだろう。せっかく安くなったのだから、そこは目をつぶるべきではないか。自分の不満は全部国のせいとしてしまう傾向はよく見られる。批判はもちろん必要である。悪いものは悪いと批判しなければ悪がはびこってしまうだろう。ただ安易な批判はそれ自体悪となる。
 マスコミに目を向けてみる。マスコミは何か問題あるとすぐ集中砲火する。ボクはここでマスコミ批判するつもりはない。マスコミを仕事にしている人間にだって生活がある。少しでも過激に、目を引くような報道をするのはある程度仕方ない。もちろん一部には目をつぶれないようなものもあるが、ここでは割愛する。つまり、大事なのは報道の受け手である民間人である。ひとつの失言、行き過ぎた言動が報道され、それをどう感じ、どのような意見を持つのかは我々の使命だ。主体性を持たずにマスコミの言うことを鵜呑みにし、簡単に批判する。そして誤報があればすぐマスコミを批判する。そのような人に自分はあるのだろうか?マスコミは情報獲得手段であり判断材料である。しかし判断基準ではない。判断基準は自分の中にある。批判するにも賞賛するにも。

今感じる違和感

 社会人になって一ヶ月が経つ。正直一ヶ月程度では社会人とは何なのか、仕事とは何なのか今ひとつピンと来ない。そのせいか、まだまだ僕の中に学生気分が残っているのではという旨のことをよく先輩に言われる。ボクはその時大抵苛立ってしまう。すいませんとは言いつつも、心のうちは反発だらけである。
 なぜか。それは学生時代の自分にプライドを持って生きてきたからだ。ボクはまだ社会人一年生だが、学生時代に積み上げてきたコミュニケーション力や人間関係構築力を社会で充分に活かせられると思っている。もちろん、意地になってこだわるつもりもないし、これからの経験でどんどん変化させようと思う。ただ、ボクは鵜呑みにしたくないのだ。社会人のルールに違和感を感じ続けたいのだ。
 ボクはこの違和感を感じなくなってしまったら終わりだと思っている。こんなもんだと思って会社や社会のルールを無条件で受け入れてしまっては、ボクがこれまで積み重ねてきた知的世界が蔑ろになってしまう。ただ社会のルールにも合理的な根拠があるはずである。その根拠を知った上での反発でなければ、ただの反抗期の中学生である。ただの反逆者になっては、知的世界を狭めてしまうだけだ。例えば、宗教の教義は日本人からしたら意味の分からないものも多いが、きっと根拠はあるはずだ。イスラームでは豚肉は食べられないことになっているが、これはイスラーム地域の気候が生肉を保存するのに適していないからであって、恐らく豚肉にあたった人が多かったためこの教義ができたのではないか、というのは有名な話である。批判したり、拒否するのは簡単である。一歩相手の立場に立つことは重要である。だから、ボクはルールというものを絶対に鵜呑みもしないが、何かしらの根拠があることを信じて必ずまず受け入れることにしている。
 根拠があるかもしれないのだが、今のところ違和感だらけである。その中でも最たるものは目上の人との会話である。仕事の話ではなく日常会話である。あのリスクのないご機嫌伺いの会話は何なのだろう。ボクとしては会話に相手の地位なんか関係ない。もちろん礼儀は大いに重んじる。でも、むしろ相手の立場が上だからといって、自分の性格を変えたり、本音を隠すのは、それこそ失礼だと思う。違う時は違うといって、考え方がおかしいと思ったらおかしいという。ちゃんとツッコミも入れる。ツッコミも場合によっては乱暴にする。これで上司が不快感だったら仕方ない。謝るしかない。これがリスクだ。ただ、その不快感が一人間としてではなく、地位の違いから生まれるものだったら、少し悲しい。
 楽しませてもルール違反だと怒られる。楽しくなくてもルールを守れば好印象。それならばボクはどんどんルールを犯す。
 ボクは今後映像の世界に挑戦する日が来るまで、コミュニケーション力を鈍らせるつもりは無い。大衆とのコミュニケーションに決まりきった型など存在してはいけないのだ。